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週刊文春の小室さん報道に思う

こういう不倫だとか、誰と誰が破局したとか、大相撲のいざこざとかを、たまにテレビをつけるとワイドショーは面白おかしく、さも真剣に取り上げている。

私は、「他人の人生を生きるな、自分の人生を生きよう」、そう思っているので、去年のゲスの不倫もそうだけど、ほとんど芸能ニュースをウォッチしていない。小室さんのニュースについては、元ファンだったこともあり、一応、ネットでいくつか記事は呼んだけど、深追いはしない。

それは他人の人生であって、自分とは関係ないから。

でも、それでも、青春を音楽で彩ってくれた、小室哲哉という人間がこんな形で引退するのは、本当に悲しい。

これ自体、引退するようなスキャンダルでもなかったと思うが、もともと精神的に弱い小室哲哉という人が、プライベートの生活で精神的に参っているところに、とんでもないパンチを死角から食らったような形なんだと思う。

仮に、自分が、この文春の記者だとしたら、どういう気持ちで記事をリリースするのだろう?

<以下、妄想>----------

たまたま、情報を嗅ぎ当てて、ちょっと張り込んでみたら、案の定、あの小室哲哉が女性と一緒にホテルから出てくる。これは大スクープだ。写真を取り、誰なのか問い詰めると、看護婦だという。それだけで、いかがわしいシナリオが出来たかのように思える。

小室さんをインタビューした時点で、「ああ、これは大スクープになるし、疲れきった彼を、また追い詰めることになるだろう」と思う。でも、こんなスクープは、もう二度と取れない。今が、人生の勝負じゃないのか?

良心とサラリーマンとしての葛藤が戦う。

でも、待てよ、と思い直す。

週刊文春という雑誌は、人を貶めるための雑誌じゃない。人に脚光を浴びせて、また這い上がるチャンスを与える雑誌なんだ!小室哲哉までの才能がある人材なら、こんな程度の攻撃ではどうってことない。だって、彼にはいつでも再起出来る音楽の才能があるんだ!きっと大丈夫、スクープを報告しよう!

そして、社に戻って、上司に報告をする。

「小室さんのスクープを抑えました!」

ここからは、大スクープとして、とんとん拍子で記事ができあがる。。もはやとめることもできない。

<妄想終わり>----------

という感じかなぁと。そして、当然、発売後は大きな話題になって部数は飛ぶように伸びる。

今回は、結果的に、一人の日本の音楽界の立役者を社会的に抹殺した形になった。ファンからしたら、殺人にも思えるような結果だった。小室さんが殺された。しかも、生殺しのような状態だ。

ゴシップ週刊誌は、どうあるべきか?

世の中には、報道の自由とルールがあり、ルールの範疇内なら、別に記者や雑誌社が方に裁かれることはない。 結果、小室さんが本当に自殺したとしても、文春は別に(多分)裁かれない。

文春の記者の方がサンジャポでインタビューに答えた感じをみると、結果について「残念」と思っているそうだ。「残念」ながら、僕は小室哲哉を社会的に抹消しちゃいました、ということなのだろう。

いつもなら、こんなニュースがあったって、世間的に週刊誌が云々いわれることは少ないように思うが、今回は、少し風向きが違う。Twitterでも #週刊文春を許さない みたいなハッシュタグをつけた運動が起きてるそうで、さすがに文春を恨む人が増えてきているそうだ。

週刊文春は、政治の闇を暴くこともあり、ある意味、権力の監視を強化してくれている雑誌で社会的に意味があるのかもしれない。こういう雑誌があるから、政治家も悪いことしようなんて思わなくなる。

だけど、例えば警察も行き過ぎた取り調べが許されないように、週刊誌も、行き過ぎたゴシップは許されるべきじゃないだろう。

許されない芸能ゴシップで思い出されるのは、イギリスでダイアナ妃がパパラッチとのカーチェイスの結果、事故死したことだ。ウィリアムズ王子が、10年経った2017年に、始めて公表したインタビューがすごく印象的で「一番、ショックだったのは、カーチェイスで追いかけた記者達は、事故にあって、後部座席で瀕死の状態の母を(助けようともせず)ただ写真をとっていたことだ」ということだ。

その後、イギリスのその記者がどうなったのか、調べようとも思わないが、ダークサイドに堕ちてしまった記者というのは、こういう行動をしてしまうくらい、冷静な判断が出来ないのだろう。

極論をいえば、今回の文春もダイアナ妃を殺した記者と、本質的には変わらない。ただ、ダイアナ妃と違って外傷がなかった小室さんのことを「まだ元気だろう」と勘違いしたのかもしれない。でも実際は、すでに小室さんはギリギリで生きている(働いている)精神状態だった、ということなんだろう。

残念ながら、こういうくだらないゴシップでも、雑誌は売れる。 話題をさらって、ニュースのトップを飾れる。

この「売れるから作る」という経済の原則は、今も昔も、どこまでいっても変えられない。

もし、こういうニュースに嫌気が指して、文春に滅んでほしいと願ったとする。といっても、文春がやらなくなっても、別のどこかがやるだけだから、文春が滅ぶのではなく、「(低俗な)ゴシップを滅ぼすためには」、という視点で考えなくてはならない。

そして、残念ながら、私の頭では、いくら考えても、そんな方法はない。 仮に、法律でああいう写真の掲載を封じることができれば、ゴシップは減ると思うが、報道の自由の担保が難しくなる。

そこで私の結論は、結局、個人のチョイスだということ。嫌ならば見なければいい。ゴシップは、どこまでいっても、他人の人生だ。他人の人生に肩入れしても、自分の人生はよくならない。

「他者は変えられないが、自分は変えられる」

これは、「人が買うから、物が売れる」という経済の原則以上に普遍的な原則だ。

この情報過多の世の中、自分で受信する情報を選択することを改めて気付かされた、そんな事件として今回の件を自分の中に整理しておきたい。

そもそも、見なきゃよかった、小室事件。見たとしても、こんなの書かずに、受け流せばよかった、小室事件。

結局、週刊誌の問題ではない、自分の問題だ、ということで、自分の中ではスッキリしました。

殴り書き、乱文、失礼しました。